【雑記】古猫から学ぶ武道哲学

【雑記】古猫から学ぶ武道哲学

突然ではあるが、皆さんは猫は好きだろうか?人類と猫の歴史を振り返ると、約9500年前にキプロス島のシロウロカンボス遺跡にて人骨と共に一匹の猫が埋葬されていたのが始まりとされているそうだ。農耕文化の発展と共に穀物が保管されるようになるにつれ、ネズミが爆発的に増加した際、穀物庫の番人役として猫が重宝されるようになったそうだ。日本に伝来してからも穀物や書物の保護という実需面と見た目の愛玩さも相まって生活を共にしてきた。少し前に「ネコノミクス」(「イヌノミクス」なんてものもありそうだが)という言葉が流行ったが、猫の愛玩さが経済を牽引することもあるそうだ。そんなかわいらしい猫の力を借りて武道哲学を説いた本が『猫の妙術』である。

なぜ武道哲学にスポットを当てたのか、というとギャンブル、相場、仕事、恋愛。いずれの局面においても根底には武道哲学に通ずるモノがあると考えたからだ。人生全般的な話を考えれば、確率論に基づき、適切なリスクリワードを考慮し、合理的にプランを積み上げ行動するのが最適解であるといえる。しかし、そのプランニングの合間合間には刹那的な勝負事が積み重なることが多い。ビジネスで言えば新規事業の立ち上げ、投資で言えばビックイベントに基づく投資行動、恋愛で言えば好きな人から好意を向けられることなど枚挙にいとまが無い。言い換えてみれば、現代の個々のシーンは武士の斬り合いのようなモノである。命こそ奪われる可能性は少ないモノの、失敗すれば冷笑をうけるそしりを免れない。

この『猫の妙術』の背景を語ると、どうやら江戸中期頃に生まれたそうだ。時代劇などのイメージだと『柘榴坂の仇討』に代表されるように武士同士の斬り合いが落ち着いたのは明治維新以降だと思っていたが、江戸中期頃になると、戦らしい戦は消失しており、ほとんどの武士にとっては斬り合いは縁のない話になっていた。平和が続くことで武士は斬り合うことが怖くなっていたそうだ。この本は、「ねずみ取りの名人(名猫?)である古猫が他の猫と一人の剣術家に教えを説く」という鳥獣戯画もびっくりのファンシーな設定になっている。江戸無血開城の立役者と言われている山岡鉄舟も愛読していたそうだ。

物語には三匹の猫として、に優れた黒猫、を備えた虎猫、の扱いに長けた灰猫が登場する。どの猫もねずみ取りとしては実績があったそうだが、どうしても大鼠を捕らえることができなかった。技では想定してた技にしか対応できず、気だけでは大鼠を上回ることができず、心には作為が生まれ、大鼠を捕まえることができなかった。これらは大鼠というイメージしやすいキャラクターを使って現実を表現していると自分は取った。現実には無限のパターンが存在するため、自ずと技では足らず、己自身が無限に対応しなければいけない。技とは真理が内包されているに過ぎず、技の習得を通じてその真理を体得することが一番肝要なそうだ。相手を圧倒しようと気を張ったところで、それは作為的なモノであり限界が生じる。同時に無心で相手に応じようと思考が介在する「念」であると相手に不自然さを与えてしまう。これら全ての事例をまとめ、「考えず、しようとせず、ただ心の『感』に従って動くこと」がこころの在り方として大事であるとまとめている。要するに技の実践を経て、その奥にある原理原則や現実の本質を見通す心を身につけることが、無限の現実に対応する唯一の方法と言えるだろう。

木鶏」や「眼裏に塵あれば三界窄く、心頭無事なれば一生寛し」を例に引き出していたが、我々が拘泥しがちな形を捨て去ることが人生ないし、勝負事の本質のようだ。自分自身はっとさせられた文中の言葉に、「負けるべきとは負けるがよい。斬られるべき時には斬られてしまえ」というものだった。マインドフルネスにも通じるが、情報や思考によって大小なれど杞憂が存在する。ビジネスや投資なら損失、恋愛なら失恋、受験なら失敗など。しかしながら生と死を分かち生まれるモノは苦しみや恐れだけである。自分が思考の果てに偶然辿り着いたニヒリズム、仏教哲学における「」と「縁起」、すべて辿り着く果てが同一と考えるとどこか腑に落ちた気がした。

興味を持たれた方は是非本書を読んでみてください。古猫師匠が優しく諭してくれますよ。

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